『療育』や『療法』というレンズを外した時に見えるもの:なぜ私たちは、生きる営みまで「処方箋」にしたがるのか [note095]

Ref. #身体観 #管理社会 #養生 #療育 #全体性 #不確実性

Library Note [Note-095]

本日の問い

発達支援を「療育」、運動を「運動療法」、森を歩くことを「森林療法」。最近、あらゆる営みに「療」という字が付くようになりました。それは安心感を与えてくれますが、同時に少し息苦しくもあります。なぜ私たちは、子供の成長や自分の体という「思い通りにならないもの」を、メソッドによって管理(修理)しようとしてしまうのでしょうか?

こんな方へ

  • 「療育」や「運動療法」という言葉に、どこか窮屈さや違和感を感じている方。
  • 正解を求めるあまり、目の前の子供や自分の体の「生々しい実感」を見失っている気がする方。

この記事の結論

  • 「療」という言葉は、人間を機械と捉え、不調を「故障」として直そうとする「管理への執着」である。子供の遊びさえ訓練に見えてしまう危うさがある。
  • パッケージ化された正解で救われているのは、実は自分自身の不安ではないか。「直す」だけでなく、土壌を耕し待つ「養う」視点を取り戻す必要がある。

その言葉に感じる「違和感」の正体

最近、あらゆる分野で「療」という言葉を目にします。
子どもたちの育ちを支える「療育」。
健康のための「運動療法」「食事療法」。
癒やしを求めての「森林療法」「植物療法」。

もちろん、専門的なサポートが必要な場面を否定するつもりはありません。 しかし、本来は医療の枠外にあるはずの「遊び」や「生活」にまで、この言葉が浸透していることに、ふと立ち止まりたくなります。

私が感じる小さな違和感。 それは、「療(なおす)」という言葉を使った瞬間、私たちの目の前にある「体」や「自然」が、「管理可能な対象」へと矮小化されてしまうような気がするからです。

なぜ、「直そう」としてしまうのか

「療」という漢字は、病を癒やすことを意味します。 その背後には、「現在の状態はマイナス(故障中)であり、それを特定のメソッドによってゼロ(正常)に戻すべきだ」という前提があります。

これは、人間を機械(メカニズム)として捉える視点です。 機械なら、壊れた原因を特定し、部品を交換すれば直ります。そこには明確な因果関係があり、コントロールが可能です。

特に、子供たちの世界において、この視点は時に残酷に働きます。 子供がただ夢中で泥遊びをしている。その自然な「営み」や「没頭」さえも、「療育」というレンズを通した瞬間に、「感覚を統合するための訓練」や「こだわりという症状」に見えてしまう。

生きていれば当然起こるはずの「ゆらぎ」を、修理すべき「エラー」として捉えてしまう。 私たちが何にでも「療」と名付けたがる心理の奥底には、こうした予測不能な生命に対する「コントロール願望」と「不安」があるのではないでしょうか。

「無駄」を許せない私たち

もう一つ、「療」が好まれる理由には、現代特有の「生産性への強迫観念」があります。

ただ森を歩く。ただ子供と遊ぶ。 それだけでは、現代人は「時間を無駄にしているのではないか」という罪悪感を感じやすくなっています。 しかし、そこに「森林療法」「運動療法」という名前がつくと、それは急に「効果効能のある生産的な時間」に変わります。

「楽しかったね」だけでは満足できず、「どんな効果があったか」を求めてしまう。 生きる営みのすべてを「処方箋」に変えてしまわないと気が済まないその姿勢こそが、実は私たちの体を一番窮屈にさせている原因かもしれません。

「養(やしなう)」という、別の眼差し

では、管理しきれない身体と、どう向き合えばいいのでしょうか。 ここで一つの補助線になるのが、古くからある「養生(ようじょう)」という言葉です。

「生」を「養(やしな)う」。 この言葉には、「故障を直す」という直線的なニュアンスはありません。 イメージとしては、「土壌を耕す」ことに近いです。

農業において、農夫は作物を直接引っ張り上げて伸ばすことはできません。 できるのは、水を与え、日を当て、土を肥やすことだけ。 あとは、植物自身の生命力がどう働くか、天候がどう影響するか、「人知を超えた領域」に委ねるしかありません。

「療(なおす)」が結果をコントロールしようとする意志だとすれば、「養(やしなう)」は、思い通りにならない全体性を、そのまま引き受ける謙虚さと言えるかもしれません。

問いとして残るもの

「これは〇〇療法だ」と名前がついた瞬間、私たちはその現象を「分かった気」になってしまいます。 複雑で、本来は割り切れないはずの目の前の現実を、自分の理解できる小さな「型(パッケージ)」に押し込めて、そこで思考を止めてしまう。 その代償として、そこにある「生々しい全体性」や「メソッドからはみ出していく命の手触り」を見失ってはいないでしょうか。

そして、もう一つだけ、少し厳しい問いを自分自身に投げかけてみてください。

あなたがそのメソッドを行うことで、本当に救おうとしているのは誰なのでしょうか。 目の前の「子ども」や「身体」でしょうか。 それとも、パッケージ化された正解をなぞり、「私は意味のあることをしている」という感覚を得ることで安心したい、「あなた自身」なのでしょうか。

もし、その行為から「療法」という看板を外してしまったら、あなたの目の前にある時間は価値を失うのでしょうか。 いいえ、そんなことはないはずです。

意味づけを手放し、ただ美味しく食べ、よく眠り、共に笑う。 そんな「名前のつかない時間」の中にこそ、私たちが本当に必要としている、豊かな養分が含まれているのですから。

この記事を書いた人

トレーナーAzuma

フィットネスの知見をもとに、動きやすい体づくりをサポート。「日常を軽やかに動く体作り」を目指して情報発信中。

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