Ref. #SBNR #スピリチュアル #身体性 #計算可能性 #脳化社会 #生態系

本日の問い
スピリチュアルな世界では「内なる宇宙」や「宇宙の法則」という言葉が好まれます。そこには、すべてが秩序正しくつながる心地よさがあるからです。しかし、私たちの肉体という現実は、もっと泥臭く、予測不能なものです。なぜ私たちは、湿り気のある「自然」よりも、真空の「宇宙」を求めてしまうのでしょうか?
こんな方へ
- 「引き寄せ」や「宇宙の法則」といった言葉に惹かれる一方で、現実の生活とのギャップを感じている方。
- 瞑想中には安らぎを感じるが、目を開けて日常に戻るとすぐにストレスを感じてしまう方。
この記事の結論
- 現代の精神性(SBNR)が「宇宙」を志向するのは、それが物理法則や波動といったルールで説明できる、透明で整った「真空状態(クリーンルーム)」だからである。
- デジタル合理主義が宇宙開発を目指すのも、そこがノイズのない「計算可能」な空間だからであり、スピリチュアルとテクノロジーは「予測不能な自然(肉体)からの脱却」という点で共通するところが多い。
なぜ、「宇宙の法則」は心地よいのか
書店に行けば「宇宙の法則」「引き寄せ」「波動」といった言葉が並んでいます。 特定の宗教を持たないSBNR(Spiritual But Not Religious)層にとって、これらが魅力的に響くのは自然なことです。
なぜなら、そこには「美しい秩序(ロゴス)」があるからです。 「自分が変われば、世界が変わる」「すべての出来事には意味がある」。 こうした宇宙的な世界観は、因果関係がはっきりしており、非常にクリアです。それゆえ心が落ち着きやすい。言い換えるなら、内面を「説明できる場所」として扱える。
自分の中に、ノイズの少ない“見通し”が立つ。
その見通しが、日常の不確実さを一時的に薄めてくれるのです。
私たちは無意識のうちに、自分の内側を「ノイズのない、清浄なプラネタリウム」のような場所だと思いたがっているのです。
合理主義者もまた、「宇宙」を目指す
この感覚はスピリチュアルだけのものではありません。 シリコンバレーの起業家や、デジタルテクノロジーを牽引する合理主義者たちが、こぞって「宇宙開発」に熱狂しているのも、どこか似た根を持っています。
デジタル思考の極致にある彼らにとって、この地球(自然)は、あまりにもノイズが多く、不確実で、「計算可能性(Computability)」が低い場所です。 天候は変わるし、ウイルスは変異するし、人間関係は泥臭い。 これらはプログラム(論理)で完全に制御することが難しい、扱いづらい要素です。
対して、宇宙空間はどうでしょうか。 そこは、極端に言えば法則と数式に寄った世界です。言うなればある種の「クリーンルーム」。 論理を至上とする現代人にとって、ウェットで予測不能な「自然」よりも、無機的で法則的な「宇宙」の方が、圧倒的に親和性が高いのです。
「内なる宇宙」を求めるスピリチュアルと、「外なる宇宙」を目指すテクノロジー。 一見対極に見える両者は、「思い通りにならない自然(身体)からの脱却」という点で、深く共鳴しているようにも見えます。
身体の内側にある「生態系」
しかし、視線を物理的な「自分の内側」に戻してみます。 皮膚一枚隔てた内側にある現実は、静かな宇宙ではありません。美しい法則で動くプラネタリウムでもなければ、計算可能なクリーンルームでもないのです。
温度があり、液体が巡り、臓器が自律し、腸内には無数の微生物が共生している。細胞は生まれては死に、修復が続き、過不足を揺れながら均している。
そこにあるのは、整然としたプラネタリウムというより、生態系に近い。
密林や土壌のように、豊かで、過密で、完全には制御できない世界です。
身体性とは、本来そういう「手触りのある複雑さ」を含んでいます。
「生々しさ」を整えたくなる心理
それでも私たちが「宇宙」という言葉を使いたがる背景には、現代の身体観もあります。
老い、痛み、性的な衝動、排泄、病気。
こうした“思い通りにならない要素”は、スマートに生きたい意識にとって、できれば視界から外したいものになりがちです。
内面を「生態系(自然)」と呼んでしまうと、この湿り気や手強さも含めて引き受ける必要が出てくる。 しかし、「宇宙」と呼べば、それらをきれいに漂白(消臭)することができます。 自分を肉体から切り離された「意識だけの存在」として定義し直すことができるのです。
つまり、「内なる宇宙」という言葉は、自己を高めるための表現であると同時に、身体が持つ現実の重さから距離を置くための、繊細な方法としても機能しているのではないでしょうか。
身体性を取り戻すために
もちろん、どの比喩を選ぶかは自由です。
宇宙というイメージが安らぎをくれることも、確かにあります。
ただ、問いは残ります。
私たちが生きているこの内側は、計算できる秩序なのか。
それとも、制御しきれない生態系なのか。
もし後者が現実に近いのだとしたら、
「宇宙」という言葉で整えすぎることは、身体の手触りを見失うことにもつながり得ます。
整然とした法則に寄りかかるのか。
それとも、割り切れない生態系としての自分を引き受けるのか。
その選び方に、私たちが身体性(エンボディメント)とどう付き合おうとしているかが、静かに表れています。










