Ref. #SBNR #スピリチュアル #身体性の喪失 #土着性 #マインドフルネス

本日の問い
最近耳にする機会が増えてきた「SBNR(無宗教型スピリチュアル)」。宗教的ではないがスピリチュアルなものを信じる価値観のことです。なぜ今この考え方が世界中で流行しているのか? その背景にある「身体性の喪失」という問題を紐解きます。
こんな方へ
- 「丁寧な暮らし」や「精神的な豊かさ」を求めているが、どこか現実感のなさに違和感がある方。
- 情報や概念としてのスピリチュアルではなく、自分の身体という「実体」を通した感覚を取り戻したい方。
この記事の結論
- 現代のSBNRブームは、宗教的な束縛を嫌う一方で精神性を求める動きだが、それは土地や身体といった「根」から切り離され、都市生活者向けにデザインされた「消費される概念」になりつつある。
- 現代社会は、面倒な作法や土着性を抜きにして、癒やしや効率を抽出した「漂白された精神性」を求めがちである。しかし、本当の自然とは、本来人間の都合通りにはいかない「畏れ多い他者」である。
SBNRという「新しい市場」
近年、SBNR(Spiritual But Not Religious:無宗教型スピリチュアル)という言葉が注目されています。
特定の宗教組織や教義には縛られない一方で、目に見えないものや、精神的な豊かさを大切にしたい。その感覚は、現代の生活感覚にとてもよく馴染みます。
この現象を少し引いた位置から眺めると、ひとつの価値観の流行というより、「精神性との『出会い方』そのものが変わってきた」ようにも見えてきます。
かつての信仰や精神性は、土地の季節や共同体、そして身体を使う作法と結びついていました。祈りや儀礼は、生活の中に「地続き」で、時間をかけて受け渡されていくものでした。
しかし現代では、精神性はまず言葉や概念として流通し、個人の生活の中に“情報として”取り入れられます。
その結果、土地や身体と分かちがたく結びついていたものが、切り離された「概念」として扱われやすくなる。SBNRの広がりは、そうした社会の変化を映す一つの鏡なのかもしれません。
「摩擦」が少ない精神性
現代におけるさまざまな精神的トレンド(マインドフルネス、ウェルビーイング、パワースポット巡りなど)を眺めると、ひとつの共通した傾向が見えてきます。
それは、多くの場合、合理的で、クリーンで、導入しやすい形に整えられているということです。
本来、精神的な営みには、地域の歴史や面倒な作法、身体を使う時間、あるいは「よく分からなさ」という「摩擦」が含まれていました。
けれど現代的な文脈では、そうしたノイズが薄まり、かわりに癒やしや効率といった「実用性」が前面に出てくることがあります。
そこにあるのは、人知を超えた何かへの「畏れ」や「祈り」というよりも、人生を快適にするための「機能としてのスピリチュアル」という見え方です。
これは、言葉が“持ち運びやすく”なった社会で起こる必然的な現象です。ただ、良い言葉ほど「使える形」へ整えられていく過程で、精神性が軽く、薄くなってしまうことがあるのです。
編集された自然と、「都合の良い部分」
自然は、本来こちらの都合に合わせてくれません。恵みを与える日もあれば、奪う日もある。暑い・寒い・怖い・痛い、そして思い通りにならない。
けれど、私たちが“概念としての自然”に触れるとき、そこから扱いにくい部分が漂白され、心地よさだけが際立って見えることがあります。
自分が落ち着くための瞑想。運気を整えるための場所。納得できるロジックとしての宇宙の法則。
それらは日々を支える道具になり得ます。一方で、それらが「世界と出会う」ためではなく、「世界を管理する」ための概念へと変わってしまうなら、そこで起きているのは、他者(大いなるもの)との接触ではなく、自分が扱える範囲の“整えられた物語”の消費に近いかもしれません。
このとき私たちは、世界の複雑さそのものではなく、複雑さを「扱いやすく要約したもの」に触れているだけかもしれないのです。
「身体性」の希薄化という背景
なぜ私たちは、こうした“整えられた概念”に惹かれるのでしょうか。
その背景には、現代の生活が、気づかぬうちに身体の手触りから距離を取りやすい構造になっていることが考えられます。
身体は、最も身近な自然です。老い、痛み、情動、排泄。これらは管理や最適化に馴染みにくい、泥臭いリアリティでもある。
一方で、概念としての精神性は、理解しやすく、語りやすく、スマートです。だからこそ私たちは、身体が発する“説明しにくい現実”より、概念の“分かりやすさ”に重心を置いてしまう。
現代の洗練された精神性は、身体の重さや、自然の怖さを「編集」し、扱いやすい形で提供してくれます。
その恩恵は確かにある。けれど同時に、編集された精神性は、生活の中で“足元”を薄くしてしまうこともある。
心地よいけれど、ふとした瞬間に頼りどころが外れやすい、そういう揺れが生まれることもあるのです。
概念から、手触りのある身体へ
SBNRという流れ自体を否定する必要はありません。自由な精神性の探求は素晴らしいことです。 ただ、それが「根のない概念の消費」で終わってしまわないように、私たちは意識的に「身体」へと還る必要があります。
スマホの中のきれいな言葉を追うのをやめて、風の流れや温度を感じ、土の上を歩いてみる。
自分に都合の良いメッセージを受け取るのではなく、その場の風の冷たさ、皮膚の感覚、筋肉の張り、呼吸の深さ、そうした「言葉にならない実感」を、まず受け取ってみる。
頭で理解する精神性ではなく、身体で確かめる精神性へ。
私たちが求めている救いは、空中に浮かぶ言葉だけではなく、重力を持ってここにある「身体の実感」の中にも、確かに含まれているはずです。
そして最後に、問いを置いておきたいと思います。
私たちはいま、「情報としての救い」と「実感としての救い」のどちらを欲しているのだろうかと。










