こんにちは!今回のコラムは、トレーナー寄りのやや専門的なお話になります。
最近のスポーツ界では「運動学習理論」や「運動制御理論」といった言葉を耳にする機会が増えました。
「制約を与えるとスキルが伸びる」「このエクササイズを取り入れると上達が早い」――そんな話題がSNSや現場で飛び交っているのを見て、「なるほど!」と感じた方も多いのではないでしょうか。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみたいのです。
それって本当に“運動学習”なのか? それともただの“新しい指導法”にすぎないのか?
指導者主体から抜け出せているか
現場で見かけるのは、指導者が「こうやれば上手くいく」と仕掛けを用意し、選手がその中でトライする姿。
もちろん工夫は大切ですし、一時的に成果も出るでしょう。
ただ、これって結局“指導者主体”の枠組みから抜け出せていないのでは? という疑問が浮かびます。
本来、運動学習の主人公は選手本人。
「なぜできたのか」「何が変わったのか」と自分の言葉で語れることこそが、本当の上達の証なのではないでしょうか。
探索するのは誰か
よく「探索(exploration)が大事」と言われます。確かにその通りです。
でも実際に探索しているのは、選手本人でしょうか?
それとも、あらかじめ用意された“制約”の中で与えられた課題をこなしているだけなのでしょうか。
もし選手が「コーチに言われた通りにやったら、できるようになった」と感じているなら、それは受け身の学習です。大切なはずの“自分で見つけた感覚”が抜け落ちてしまいます。
指導者の役割を問い直す
では、指導者の役割とは何か。
答えはシンプルで、「観察者」としての立ち位置ではないでしょうか。
選手の試行錯誤をよく見て、ときに声をかけ、ときに見守る。
むしろ選手のほうから「こんな工夫を試したい」と言えるような関係こそ、理想なのだと思います。
流行で終わらせないために
せっかく「運動者主体」「協調」という考え方が広まりつつあるのに、いつの間にかまた“指導者主体”に逆戻り――。
そんなことになったら、このブームは単なる流行で終わってしまいます。
運動学習の本質は「誰のための学びなのか」という問いに尽きます。
私たちが忘れてはいけないのは、学ぶのはコーチではなく選手自身だということ。
このシンプルな原点を大切にできるかどうかが、ブームの先を決めるのではないでしょうか。













