自由と放任

近年、教育の現場では「自由」と「放任」の違いについて多くの議論が重ねられているようです。私は教育の専門家ではありませんが、ふとそうした言説に触れたとき、胸に小さなしこりが残ることがあります。

よく語られるのは、「放任は無責任だが、自由には適切な環境設定と言語化が必要だ」というロジックです。確かに、大人が丁寧にお膳立てした「質の高い自由」は、子供たちを安全に導くのかもしれません。しかし、そうして論理的に定義された「自由」という言葉の中に、私が肌で感じるような、心に馴染む自由の手触りは感じられないのです。

その区分け自体が、あまりにも「大人の理屈」で塗り固められてはいないでしょうか。

私たちはつい、子供たちに「なぜそれを選んだのか」「その自由をどう使うのか」と、言葉による説明を求めがちです。しかし、本当の自由とは、言葉の網の目からこぼれ落ちた場所にこそ、宿るものではないでしょうか。

理由なんてないけれど、どうしても今はこれをしたい。 あるいは、何もしたくない、誰とも話したくない。 そんな、大人から見れば意味不明で、生産性のない時間。

そうした「言葉にできない余白」の中にこそ、子供固有の感性が息づいています。すべてを言語化させ、大人の理解の範疇に収めようとすることは、時に子供本来の自由を削ぎ落とし、大人が安心するための「きれいな自由」を押し付けることになりかねません。

また、「放任」として批判されがちな状態にも、実は大切な側面があるように思います。「放っておかれる」ことは、決して見捨てられることと同義ではありません。大人の目線や意図から一時的に解放され、自分だけの世界に深く沈潜する時間。それは、子供が自分自身の手触りを確かめるために必要な「空白」でもあります。

もちろん、無関心によるネグレクトは防がねばなりません。しかし、「余計な口出しをせず、遠くから気配だけを感じている」というような、温かな放任であり静かな見守りは、時に言葉以上の信頼の証となることもあるはずです。

教育における本当の豊かさとは、「自由か放任か」を大人が論理的に定義することではなく、その定義できない曖昧さを許容することにあるのではないでしょうか。

子供が黙り込んでいるとき、無理に言葉を引き出さず、対話による解決さえ目指さず、沈黙を沈黙のまま受け止めること。 子供が道に迷っているとき、すぐに「正しい迷い方」を教えるのではなく、迷子になっている心細さにただ寄り添うこと。

私たちが目指すべきは、大人のロジックで組み上げた「崩れない構造」を用意することでも、放任を一方的に批判することでもありません。自由と放任、その間にある「あわい」を、大人の論理で無理に区分けせずに見つめる姿勢です。

翻って考えてみれば、こうした「自由か放任か」という議論自体が、昨今の「何でも言語化して語ろうとする」社会のムーブメントそのものを映し出しているように感じます。

言葉にするということは、物事を論理の構造に当てはめるということであり、それは教育というシステムの中に、生身の人間を組み込むことでもあります。 しかし、人間の営みの本質や、豊かな情緒といったものは、論理では割り切れない場所にこそ溢れているはずです。

大切なことは、必ずしも言葉で確かめ合い、共有すべきものとは限りません。

いかに大人が立派な教育論を語ろうとも、子供たちは私たちの言葉以上に、この社会のありようや、私たち大人の「後ろ姿」をじっと見て育ちます。 私たち自身が、何でもかんでも言語化し、効率よく共有することばかりに追われていないでしょうか。論理で説明できない情緒や、言葉にならないあわいを大切にできているでしょうか。

子供に自由を説く前に、まず私たち自身が、正解のない問いに迷い、揺れながらも、その曖昧さを引き受けて生きる姿を見せること。その「背中」を見せることこそが、何より雄弁な教育なのだと思います。

その上で、子供たちの言葉にならない揺らぎや、非合理な衝動さえも包み込めるような、「柔らかい眼差し」を持つことが大切なのではないでしょうか。

言葉で説明できなくてもいい。失敗をうまく学びに変えられなくてもいい。 ただそこに、その子がその子として存在していることを面白がり、信じて待つ。

そんな、理屈を超えた大らかさと、私たち大人の嘘のない後ろ姿の中にこそ、子供たちが深呼吸できる本当の自由が広がっていくのだと思います。

この記事を書いた人

トレーナーAzuma

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