年が明けてすぐのこのタイミングで、ふと目に入ってきたニュースがありました。
栃木県真岡市の中学校で、いじめ動画の拡散が報じられていた件です。
こういう話題は、どうしても胸の奥がざわつきます。
そして同時に、ニュースそのものよりも、それに反応していくSNSの空気を眺めていると、どうにも拭えない違和感が残りました。
この一連の騒動を見ていて、私が強く感じたのは、ネット社会の暴走と、いわゆる「モンスターペアレント」と呼ばれる過剰な介入のあいだに、どこか似た“病理”があるんじゃないか、ということです。
ネットと親、共通する「焼き畑農業」的な過剰反応
動画が広がると、ネットは一気に沸騰します。
断片の情報だけで、学校や加害側(とされる相手)を徹底的に叩く。
一方で、同じく断片的な情報だけで学校に乗り込み、感情のままにクレームをぶつける保護者もいる。
どちらも「子どもを守るため」や「正義のため」に見える。見えるんですが、やっていることは、結局のところ“焼き畑農業”に近い。
燃やし尽くすのは簡単です。
でも、燃えたあとに残る荒野を引き受ける人は、ほとんどいない。
ネットは次の炎上へ移り、親は次の要求へ移っていく。そこに、現場の時間だけが取り残されます。
現場不在のまま暴走する「脳内反射」
ここで決定的に欠けているのは、たぶん「身体性」なんだと思います。
身体を通って刻まれた記憶は、ストックとして残ります。
逆に、身体を介さずに入ってくる情報は、フローとして流れていきやすい。
ネット上の人々は、画面越しのフロー情報に反応するだけで、当事者の痛みを身体(ストック)として引き受けてはいません。
過剰に介入する親もまた、子どもが過ごしている教室の空気や、人間関係の複雑さを“現場の身体感覚”として共有しているわけではない。
見えた「絵」や、切り取られた「報告」だけで、脳内で物語が組み上がり、脊髄反射みたいに攻撃のアクションを起こしてしまう。
そしてその攻撃は、被害者や子どもへの共感というより、大人側の内側(かつての傷、社会への鬱憤、不安、プライドの毀損など)を現場に投影して解消する“代償行為”に近いようにも見えます。
隠蔽される本質と、奪われる「心の抗体」
もちろん、いじめを受けた被害者には何の非もありませんし、その肉体に刻まれた恐怖や痛みは、決して軽視されていいものではありません。
私がここで危惧しているのは、被害者が抱えるその切実な痛みが、ネット上の「コンテンツ」や、大人の「正義感の捌け口」として消費され、一番大切な本人の心が置き去りにされてしまうことなのです。
こうしたネットや親による外部からの「身体性を欠いた介入」は、結局のところ子供を救うことにはなりません。
外野が騒ぎ立てて無理やりその場を鎮圧しても、いじめの心理そのものが消えるわけではなく、より見えにくいアンダーグラウンドな場所へ潜っていくだけです。
さらに深刻なのは、子供自身がトラブルや理不尽な人間関係と向き合い、悩み、乗り越えていく機会を大人が奪ってしまうことです。
ウイルスと同じで、人間関係のトラブルもまた、自らの心と身体で向き合うことでしか「抗体」は作られません。
ネットが裁いてくれる、親が学校をねじ伏せてくれる、そんな環境で「無菌状態」のように守られたとしても、社会に出れば理不尽なことは山ほどあります。その時、誰も守ってくれない現実の前で、抗体を持たない子供たちはあまりにも脆く、簡単に潰されてしまうでしょう。
「身体性」を取り戻し、泥臭い現実を引き受ける
ネット世論も、過保護な介入も、一見「正義」を行使しているように見えます。
でも、痛みや手間のあるプロセスは引き受けず、安全圏から言葉だけで介入する姿勢は、結果として子どもたちの未来を食い潰しているだけかもしれない。
いま大人に必要なのは、ネットで石を投げることでも、学校に怒鳴り込むことでもなくて。
「いじめ」や「トラブル」という泥臭い現実から目をそらさず、子どもがそこで何を感じ、どう耐え、どう乗り越えようとしているのか、その痛みに、身体ごと寄り添う覚悟。つまり「身体性の回復」なんだと思います。
外部の火力で焼き払うのではなく、当事者としての重みを引き受ける。
それなしに、本当の意味で誰かが救われることは、きっとないのだろうと。私はそう感じています。











