どこか遠くへ行こうとするとき、そこには必ず身体的な手がかりがあります。距離の重さ、移動のコスト、見知らぬ土地の匂い、言葉の壁。そういったものが「ここではないどこか」を本物にしていました。
インターネットが世界中をつなげて、情報はほぼ無抵抗に手元へ届くようになりました。それはある種の自由ではありますが、同時に何かを失っているように感じます。
それこそ私の親世代の話になりますが、ヒッピーなどの時代は遠くへ行くことによってでしか変われないと信じられていたように思います。
これは勝手な想像ですが、思想に惹かれる以前に、「そこまで行く」という身体的な行為が、内側に何かを熟成させていたからではないでしょうか。道中の不自由、異物感、疲労。そういうプレッシャーがあってはじめて、心の中が本当に動きはじめます。
いま「宇宙」という言葉が二つの意味で同時に使われています。一方には、人類が本当に宇宙へ向かおうとしている現実があります。もう一方では、心や精神の深さを宇宙に例える言い方が広まっていて、日常のあちこちでその比喩を目にするようになりました。
そんなことを考えていると、映画『インターステラー』のことをふと思い出します。人類存続のミッションを背負った主人公が、家族を地球に残して宇宙へ旅立つ物語です。広大で無機質な宇宙の奥へ進めば進むほど、逆説的に、残してきた家族への感情や自分自身の人生といった内側のものが、じわじわと輪郭を持ちはじめます。外へ向かうほど、内が深くなる。あの構造は監督クリストファー・ノーランが明確に意図して描いたものだと思います。
では、最初から内側だけに向かったらどうなるでしょうか。
同じく監督クリストファー・ノーランが、『インターステラー』より以前に撮った『インセプション』では、SFの設定として主人公が他人の夢の中へ、心の深いところへと潜り込んでいきます。
ところが、どこまでも内側へ入り込んでいった先にあったのは、豊かな何かではなく、荒涼として無機質な、まるで宇宙そのもののような世界でした。
内へ内へと向かった果てに待っていたのが、外の宇宙と同じ光景だった。そしてその次の作品である『インターステラー』では、外の極限へ向かうことで、逆に人間の内側が豊かになっていく。この二作を並べると、ノーランがどちらの作品でも結局は人間の心の問題を描いていたことが、より鮮明に見えてくる気がします。
話を戻します。空間の移動も、身体への負荷も、外からのプレッシャーも伴わないまま自分の内側へ潜っていくと、そこはどこまでも自分にとって都合のいい形に整っていきます。
摩擦がないから、気持ちよく深まっているように見えます。けれどそれは、すでに自分の中にあるものをなぞっているだけかもしれません。輪郭が太くなっているだけで、形そのものは変わっていない。それは深化ではなく、ただの強化かもしれません。
外との衝突や、身体が何かに抵抗する経験があってこそ、内側は耕されていくのかもしれません。でも同時に、そのプレッシャーをもたない形の旅が行き着く先はどこなのでしょう。身体的な手がかりのない時代に、わたしたちの内側はどのように変化していくのでしょうか。











