「幸せホルモン」に想うこと
最近、「幸せホルモン」と呼ばれるセロトニンや、オキシトシンなどのワードを目にする機会が増えたように感じます。
心が疲れるのはセロトニン不足だから、トリプトファンを含む食品を食べよう。朝日を浴びよう。オキシトシンを増やそう。そんな言葉が、SNSや書籍、広告の中にあふれています。
セロトニンは実在する神経伝達物質ですし、トリプトファンがその材料の一つであることも事実です。栄養状態と精神状態が無関係でないことも、多くの研究が示しています。
ただ、こうした話を聞くたびに私が気になるのは、それが正しいかどうかよりも、私たちがなぜこうした説明を求めるようになったのか、ということです。
答えを物質に求めてしまう
現代では、心の不調に対しても「何を摂ればいいか」「何をすればいいか」という答えが求められます。
セロトニンを増やす、腸内環境を整える、朝日を浴びる。どれも間違ってはいません。
けれど、その前に考えたいことがあります。
その人がなぜ疲れているのか。なぜ孤独を感じているのか。なぜ不安が消えないのか。
そこには仕事のあり方や人との関係、家族との距離感、地域とのつながり、自分自身との付き合い方といった、生活全体の問題が横たわっていることが少なくありません。
私自身、日々の仕事の中で人の身体や暮らしに向き合っていると、それを感じる場面によく出会います。それでも私たちは、生活全体を見直すよりも先に、個別の物質やテクニックに答えを求めてしまう。俯瞰で見ると、これは栄養学の問題というより、現代人のものの見方そのものを表しているように思います。
薄くなりつつある「生活の背景」
私は以前から、人間の営みには「背景」があることが大切だと考えています。
食事は本来、栄養素を摂取する行為ではありませんでした。誰かと同じ食卓を囲み、季節を感じ、畑や市場とのつながりの中で営まれる、生活の一部でした。栄養はその結果として存在していたのであって、目的ではなかったのです。
会話も同じです。
昔の人々は、コミュニケーションのために集まっていたわけではありません。畑を耕し、山を歩き、仕事をし、祭事を行う。そうした共通の営みがあって、その背景として会話が生まれていました。
ところが現代では、その背景が少しずつ失われています。
食事は栄養素になり、運動は消費カロリーになり、会話はコミュニケーションスキルになりました。生活全体の中に埋め込まれていたものが、それぞれ独立した機能として切り出されているのです。
だから私たちは、人とつながりたいと言いながらコミュニケーション術を学び、幸せになりたいと言いながらライフハックを調べ、健康になりたいと言いながら栄養素を数えます。かくいう私自身も、気を抜けばすぐにそちら側に引き寄せられてしまいます。
重要なのは全体性
私たちは問題を解決しようとするとき、原因を細かく分解し、一つひとつ取り出して考えます。
けれど、人間の暮らしはそれほど単純ではないと、私は思っています。心だけを切り離すことも、栄養だけを切り離すこともできません。人との関係も、仕事も、食事も、運動も、遊びも、地域とのつながりも、本来は一つの暮らしという全体性の中でつながっています。
私が見つめ直したいのは、個別の要素やテクニックではなく、それらが自然と生まれてくる「暮らしの背景」、つまりこの全体性そのものです。
技術が増えても、不調は減らない
心の不調を解決する技術が増え続けているのに、心の不調が減らないのだとしたら。
理由はきっと、問題のある一点ばかりを見て、暮らし全体の風景を見失っているからだと、私は思うのです。
一つひとつの答えを探す前に、まず自分の暮らしを、少し引いた場所から眺めてみる。
そこから、本当に必要なものが見えてくるのかもしれません。


