旅と宇宙とノーランと

いきなり唐突な書き出しにはなるのですが・・・

わたし自身、どこか遠くへ行きたいと思うことが、以前よりも減った気がします。
情報はすぐ手に入るし、知らない場所もすぐに調べられる。だから、それで意外と満たされちゃう。便利になったなかで、そうやって生活が変わったような感覚はぼんやりあります。

インターネットが世界中つながったことによって、情報はほぼ無抵抗に手元へ届くようになりました。それはある種の自由ですが、同時に「知らないからこそ行く」という動機が消えつつある気もしています。

私はフォークソングが好きで、中でも吉田拓郎はよく聴きます。同世代では珍しいと言われますが(笑)

フォークを聴いていると、現代とは異なる、ヒッピーをはじめとした当時の文化の影響というものをどこかに感じます。そして、実は当時若者たちを突き動かしていたのは、思想そのものというより、「とにかく行く」「どこかに集う」という身体的な行為を求める気持ちだったんじゃないかと、ふと思うことがあるのです。

旅の醍醐味って、不自由さや異物感、身体で感じる疲労みたいなものを引き受けることなんじゃないのかなって。なぜなら、そういう時に、心が動いたりするものだから。

私自身の昔話ですが、青春18きっぷでどこまで行けるか、みたいなことをしていた時期もありました。
そんな旅でも、太平洋側と日本海側とで全然違う車窓の風景、その移り変わりを眺めながら、日常のことや人生のことをぼんやりと考えた道中の記憶が、今でも確かに頭の中に残っています。

話は変わるのですが、いま「宇宙」という言葉が二つの意味で同時に使われています。
一方には、人類が本当に宇宙へ向かおうとしている現実があります。もう一方では、心や精神の深さを宇宙に例える言い方が広まっていて、日常のあちこちでその比喩を目にするようになりました。

そんなことを考えていると、映画『インターステラー』のことをふと思い出します。人類存続のミッションを背負った主人公が、家族を地球に残して宇宙へ旅立つ物語です。
広大で無機質な宇宙の奥へ進めば進むほど、逆説的に、残してきた家族への感情や自分自身の人生といった内側のものが、じわじわと輪郭を持ちはじめます。
外へ向かうほど、内が深くなる。あの構造は監督クリストファー・ノーランが明確に意図して描いたものだと思います。

では、最初から内側だけに向かったらどうなるでしょうか?

私は映画が好きなので、またしても映画の引用になってしまうのですが、同じくノーランが『インターステラー』より以前に撮った『インセプション』では、SFの設定として主人公が他人の夢の中へ、心の深いところへと潜り込んでいきます。
ところが、どこまでも内側へ入り込んでいった先にあったのは、豊かな何かではなく、荒涼として無機質な、まるで宇宙そのもののような世界でした。

内へ内へと向かった果てに待っていたのが、外の宇宙と同じ光景だった。そしてその次の作品である『インターステラー』では、実際に外の宇宙へ向かうことで、その旅の過程を通じてキャラクターの内側が豊かになっていく。
この二作を並べて考えると、ノーランがどちらの作品でも結局は人間の心の問題を描いていたのだなと、改めて思います。

話を戻します。空間の移動も、身体への負荷も、外からのプレッシャーも伴わないまま自分の内側へ潜っていくと、そこはどこまでも自分にとって都合のいい形に整っていきます。
摩擦がないから、気持ちよく深まっているように見えます。けれどそれは、すでに自分の中にあるものをなぞっているだけかもしれません。輪郭が太くなっているだけで、形そのものは変わっていない。それは深化ではなく、ただの強化かもしれません。

もう何年も前に書いたブログでも、人生と摩擦について考えたことがありました。結局、私の中でものを考えるときのテーマは、たいして変わっていないようです(笑)
私たちの内面は、外部との衝突や、身体が何かに抵抗する経験があってこそ、耕されていくのかもしれません。
でも同時に、そのプレッシャーをもたない形の旅が行き着く先はどこなのでしょう。
身体的な手がかりのない時代に、わたしたちの内側はどのように変化していくのでしょうか?

この記事を書いた人

トレーナーAzuma

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