圧巻の『もののけ姫』IMAX体験
今、映画館では『もののけ姫』がIMAXスクリーン限定でリバイバル上映されています。ちょうど今年、私が住む宇都宮のTOHOシネマズにもIMAXが導入され、この上映企画に参加できることになりました。
「いつか期間中に見に行こう」と悠長に構えていたら、宇都宮のスクリーンもほぼ満席。さすがはスタジオジブリです。「このまま見逃すわけにはいかない」と、早速劇場へ足を運びました。
そして、まさに見終えた直後の感想は、「圧倒的なものを見せられて言葉もない」というものです。まさに唖然としてしまいました。
「言語化」できない体験の重み
私はいつも、映画を観た直後の感想をメモパッドに記すようにしているのですが、今回は何一つ書くことが出来ません。
もちろん、何の感想もないわけではありません。終幕、数多の思念を飲み込んで肥大化したデイダラボッチが消失し、それと共に再生が訪れる。そして余韻を感じさせる僅かな間と共にエンドロール。圧倒的美術。この受け取った感覚を「言葉にできない」、あるいは「言葉にしないほうが良い」という思いに至った、という方が正確です。
考えてみれば、今の時代、「言語化」ということが非常に重要視されています。しかし、人が真に感動する瞬間というのは、まさに言語では表現できないものであり、言語的に受け取るものでもないのだと分かりました。
そもそも、言語的に解釈・理解できるものであるならば、それが「映画」である意味がありません。昨今の「言語化」ブームというのは、「言葉にすればわかる」と我々が思い込んでいる証拠なのではないでしょうか。
そして、そういった私たちの「頭だけで何かを掴み、理解したような気になってしまう」という思い込みを、この『もののけ姫』という作品は、丸ごと否定してくるようでした。
作品から受け取ったこの大きな何かと、自分の感覚的なものとの境に生まれた、この鑑賞直後の感覚だけが、映画を見たことの全てなのだと改めて感じさせられます。
私の「解釈」という網でこの作品を掬いとろうとしても、作品はある種の粘度を伴ってそこからこぼれ落ちていく。しかし、それも含めて「何かを受け取った」と感じている。この不思議な感覚こそが、体験の核心なのだと思います。
小林秀雄の言葉に触れて
そんなことを考えていたら、無性に文芸評論家、小林秀雄の言葉に触れたくなりました。
今まさに、家の本棚から小林秀雄の全集を引っ張り出して読みふけっているところです。いくつか、今の感覚に響いた彼の言葉と解釈を書き記し、本日のまとめとします。
美しい「花」と「花」の美しさ
「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」
—『当麻』より
「美しさ」という抽象的な概念だけを取り出し、それを分析したり定義したりしてわかった気になる――そういう典型的な“解釈”の態度には寄りかかるな、と小林秀雄は言います。むしろ本物は、いま目の前に立ち上がっている一回きりの「花」、たとえば能でいえば舞のその瞬間のような、生々しい一回性のほうにこそあるのだ、と。
つまり、「美はこの“これ”に宿っている。『美しさとは〜である』という一般論に逃げてはいけない」という話です。これは、作品を概念で回収しようとする態度そのものへの批判になっています。
美がもたらす「沈黙」
「美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。」
—『美を求める心』より
これもまた、非常に小林秀雄的な言葉です。
「感動したものをすぐに言葉で説明して納得しようとするな。まず黙れ」と言っている。解釈より先に沈黙と衝撃がある、という順番を明確にしています。
この“まず沈黙”という倫理観は、「わかったふりの解説」に逃げないためのブレーキです。小林秀雄にとって、しゃべりすぎる解釈は、すでに対象からズレ始めている合図なのでしょう。
「考える」とは対象と交わること
「対象と私とがある親密な関係に入り込むことが、考えることなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。」
—『信ずることと考えること』(学生との対話)より
これは彼の“作品への向き合い方”の核心です。
ふつうの解釈は、「作品=対象」をテーブルの上に置いて分解していくイメージです。しかし小林秀雄は、それを「本当の『考える』ではない」と切り捨てます。
彼が言う「考える」とは、作品と自分ががっつり交わってしまうこと。距離を取らず、危険なほど近づくこと。つまり、作品を安全なところから“解釈”しようとする態度そのものを拒否しているのです。
見るのではなく「見据えられる」
「僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。」
—「ゴッホの手紙」より(ゴッホの絵の前での体験を回想)
美術批評といえば、「この絵は◯◯を象徴していて…」と、こちらが絵を説明するかたちになりがちです。しかし小林秀雄は、逆を言います。「私が鑑賞したんじゃない。むしろ絵に見据えられた」と。
ここには、「作品を所有物のようにして、こちら側の言葉で整理しようとする」態度への拒絶があります。作品は“対象”ではなく、“主体”としてこちらに迫ってくる。そうなると、こちらが一方的に“解釈してあげる”という立場そのものが崩れてしまいます。
まとめ
小林秀雄の言葉をまとめると、以下のようになります。
- 彼にとって批評とは「対象を分析して正しい意味を教えること」ではありません。
- 美や作品の本質は、観念的な「美しさとは何か」という一般論では掴めません。
- 本物の美は、まず人を沈黙させる力として迫ってきます。「説明する前に黙る」という順番の方が本質的です。
- 作品とは、距離を置いて安全に“観察”するものではなく、こちらが身を入れて交わる相手です。
- 場合によっては、見る側ではなく、作品のほうが主体となってこちらを見据えてきます。
これらを一列にすれば、小林秀雄はこう言っているのでしょう。
「作品は、あなたの解釈の網で安心して包むものではない。むしろ、あなたのほうが捕まるものなのだ」と。
今回の『もののけ姫』を映画館で観るという劇場体験は、私にとってはまさしくそういうものでした。
劇場体験の価値
私は映画館が大好きで、かつては年間100本近く劇場で観ることもありました。
映画館での劇場体験は、テレビと違って余計なノイズがなく、気が散るものも一切ありません。そんな中で作品に没入するとき、特に今回のような、言葉にできない圧倒的な体験をすることがあります。
こうした得難い体験をするためにこそ、私は劇場に通っているのだと、改めて強く思いました。

















